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兒島俊郎さん

兒島画廊代表

兒島画廊代表

一瞬の風景に自然の本質を捉えた
児島善三郎が目指したものとは

兒嶋画廊は、武蔵野の国分寺崖線の上にある小さなギャラリーです。外壁をまるまるトタン板で鱗葺きにした楽しそうな建物は藤森照信さんの設計表には流木でこしらえた不思議なオブジェも並んでいます。

代表の兒嶋俊郎さんは、洋画家・児島善三郎(1893〜1962)のお孫さん。そう、お気づきの通り、児島善三郎とは本誌(冊子『伊佐通信』)の表紙を毎号飾っている絵の作家であり、社長・伊佐裕が敬愛してやまない人物です。

善三郎のアトリエ跡地に建つギャラリーをお訪ねした伊佐は、壁面に並んだ作品を前に「いいなぁ、省略の中に温かな温度があって、気持ちにそのまま訴えてくるようです。万古の思いといいましょうか、涙が出てくるような……。生きる力が湧いてきます」と感嘆しきり。

俊郎さんも「悠久の時間がありますよね。万古とは、決して古びない永遠性です。風景に対して、写生を旨としつつ、写実を省略するのではなく、現場で本質をつかみ取っている。だから、1枚の絵の中に生命があふれているんです」。

伊佐が楽しみにしていた兒嶋画廊の訪問。作品1点ずつに話が弾みました。

実は善三郎は伊佐が通った福岡県立修猷館高校の大先輩です。老舗紙問屋の長男に生まれた善三郎は3年生の時、その後も親しい交流を続ける洋画家・中村研一らと絵画同好会を創立。50数年を経て入学した伊佐もまた、美術部で絵を描いていました。

「善三郎さんの名を1年の時に知りました。折々に画廊を訪ねて作品を見るようになったのは30年くらい前からです。もう、理屈抜きで好きです。私たちが何百年と見てきた景色を感じます。懐かしいのだけど、過去を惜しむのではなく“今”に通じる表現なんですよね」と伊佐。

写生を基本にしていた児島善三郎。その段階から風景を大胆につかみ取っていました。

植物の姿を大きく掴み取って表現した善三郎。正面は『向うの丘』という作品です。

こちらは 季節の変化がしみじみ心に伝わる2点。

善三郎は家業を継ぐことなく上京し、二科展などに出展。やがてフォービズム全盛だったフランスに足かけ4年にわたって留学しました。
「でもヨーロッパで見てきたのはルネサンス美術だけでした。日本には絵画の豊かな歴史はあるけれど、量感をつかむのが苦手。そこをヨーロッパに学ぶのだ、と」と俊郎さん。
もちろんピカソやマティスの影響も受けましたが、真似ることはしません。「そうした潮流を日本の油彩として自身で咀嚼し、帰国してすぐに描いた松の風景画にも生かしているんですね」

木々や雲を円や線で表現するような大胆な省略とおおらかな筆致。そしていきいきとエネルギーにあふれる色彩。“日本人の油絵”を追求した独自の画風には、俵屋宗達、尾形光琳、尾形乾山など琳派に近い部分もあるのではと俊郎さんは言います。

1936年、43歳の善三郎は国分寺に自宅アトリエを構えます。当時の武蔵野の自然や田園風景は、この孤高の画家におおいなインスピレーションをもたらしたことでしょう。本誌第1号の表紙に使わせていただいた作品『初夏』も、木々に囲まれた農地の風景です。

訪れた日はちょうど「児島善三郎展」の準備中。右から2点めが本誌第1号の表紙の絵です。

ギャラリー内は壁も床も漆喰。俊郎さんが集めた造形物もいい雰囲気です。

—『伊佐通信』11号(2019年)より転載—

兒島俊郎(こじま・としお)
兒嶋画廊代表

叔父の児島徹郎が経営する日本橋画廊にて修行後、1981年、神宮前3丁目に兒嶋画廊をオープン。1997年に銀座、2004年に六本木に移転した後、2014年4月、「丘の上APT/兒嶋画廊」を開館。児島善三郎をはじめ、織田廣喜、福井良之助、三木富雄、志村ふくみなど日本の近現代美術のほか、藍染やアイヌの織物などの工芸も扱っている。また、児島善三郎のカタログレゾネを発行。
丘の上APT/兒嶋画廊
児島善三郎作品アーカイブサイト

新・日本ぐらし探求者たち|63|

ギャラリー櫟20年記念 久遠の生命の把握
児島善三郎展

複雑な構図、重層的な色彩といった西洋の油絵の豊穣さを会得したうえで、短歌や俳句に通ずる日本の感性を持って、一瞬の美を見事に捉えた児島善三郎。本展では、昭和11年に居を移した国分寺時代の作品を中心に展覧いたします。
〈展覧会は終了しました〉
児島善三郎展について